シャンソン愛

峰艶二郎(みね えんじろう)による、シャンソンについて綴るブログです。著書『戦前日本 シャンソン史』(1500円.完売)。htmt-mth@ezweb.ne.jp

石坂真砂

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生者と死者の肉声 石坂真砂

シャンソン歌手からフォークシンガーに転身した加藤登紀子のように、シャンソンをきっかけにオリジナル曲を歌うようになった歌い手は数多い。
こうした人々が、オリジナル曲を歌うようになった経緯を知りたいと思った。

ところで、かつて沖縄にも「銀巴里」の名がついたシャンソニエがあった。
「銀巴里マ・ヤン」
その店主が、石坂真砂というシャンソン歌手だった。

石坂は、1931年に沖縄に生まれた。44年、戦争のため本州に疎開する。その後は東京で演劇をしつつ、エディット・ピアフ(Edith Piaf)を聴いたことでシャンソンに目覚める。
72年、沖縄に戻り「銀巴里マ・ヤン」を開店し、現地で活動した。79年には肢体不自由児のためのチャリティーコンサートを開いていたという。
2003年、死去。「銀巴里マ・ヤン」も同年閉店した。

石坂が生前発表したレコードがある。
「あぁ、対馬丸
という作品だ。

この対馬丸は、もともと貨物船であったが、戦時中は軍の輸送船となっていた。
44年、沖縄の本土決戦に備えて、子供や高齢者を疎開させるための輸送船として、対馬丸が選ばれた。8月21日の夕方に出港するも、深夜にアメリカの潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没。多くの犠牲者を出した。

当時12歳の石坂も対馬丸に乗船する予定だったが、直前に病気になり、後日他の船で疎開した。対馬丸が沈没したことは、軍の機密事項で戒厳令が敷かれていたため、彼女がこの事実を知ったのは、戦後になって東京から沖縄に戻ったときであった。

彼女の娘でシャンソン歌手の石坂美砂は、対馬丸の事実を知ってからの母親はラブソングを歌うのをやめて、戦争の悲劇を伝える楽曲を作り、歌うようになったと述べている。そのようななかで完成したのが、「あぁ、対馬丸」であった。

このレコードは、84年に発表されている。
収録曲はオリジナル曲9曲で構成される。作詞は石坂、作曲は栗原浩一。標準語と沖縄の方言を交えた歌詞で歌われる。
A面には、「あぁ、対馬丸」の連作4曲、B面には「対馬丸」以前に歌っていたと思われる恋愛をテーマにした楽曲が収められている。とはいえ、沖縄の遊女を取り上げた「よしやちる哀歌」などを聴くと、石坂はもともと歴史を取材した楽曲を作ることに関心があったのかもしれない。

レコードジャケットには、浜辺の写真が印刷され、上部には対馬丸の沈没した年月日、下部には沖縄の終戦記念日である6月23日が陽刻で記されている。メッセージ性のあるデザインだ。

「あぁ、対馬丸」の連作4曲は、
「啓子ちゃん生きた」「邦夫ちゃん死んだ」「母さんの話」「エイサー(夏祭り)」
で構成される。
「啓子ちゃんー」は、船が沈没してから島に漂着するまでのドキュメント、「邦夫ちゃんー」は息子の死を知らない母の歌、「母さんー」は戦争体験者の子供が戦争に思いを馳せる歌、「エイサー」は沖縄の民謡に合わせて平和を訴える歌である。

この中で圧巻なのは「啓子ちゃんー」で、台詞と歌が歌謡浪曲のように展開する。石坂はもともと役者だけに、台詞がさすがに上手い。
「啓子ちゃんー」「邦夫ちゃんー」は、対馬丸の生存者の体験談をもとに作られたそうだが、82年に発表されたアニメ映画「対馬丸ーさよなら沖縄」に酷似していることから、それを下地にしたと思われる。

対馬丸の難を逃れた石坂が、その沈没の悲劇を知ったときの心情はいかばかりだっただろうか。彼女が、これまでレパートリーとしてきた恋愛をテーマにしたシャンソンを捨てて、歌を通じて戦争の不条理を伝えるのに邁進したことに、私は表現者としての強さを感じる。
石坂の歌声を聴くと、戦時中の沖縄を知る人々の声、生存者だけでなく死者の肉声もまた立ち現れてくるように思われてならない。