シャンソン愛

峰艶二郎(みね えんじろう)による、シャンソンについて綴るブログです。著書『戦前日本 シャンソン史』(1500円.完売)。htmt-mth@ezweb.ne.jp

薩めぐみ

シャンソンという鎧ー薩めぐみ Ⅰ

フランスのシャンソン歌手の経歴を見ると、移民が多いことに気づく。アズナブール、ブレル、ダリダ、ムスタキ、アダモなど、よく知られる歌手たちはフランス出身者ではないのだ。「フランスは旅行者には天国、移民には地獄」という黒いことわざがあるが、彼らがいかにしてシャンソンを武器にして地獄を生き抜いたか、ということに関心をもった。
日本からフランスに渡った歌手はいないだろうか。そんなことを考えて、ふと頭をよぎったのは薩めぐみ(さつめぐみ)という人のことである。

薩めぐみは、1948年に札幌で生まれた。父親は札幌の情報誌「財界さっぽろ」の編集長である。
早稲田進学中、68年に第五回日本アマチュアシャンソンコンクールで大賞を獲る。その後、石井好子音楽事務所の専属歌手になるも、日本でシャンソン歌手と称して活動することに疑問を感じ、70年にパリに渡る。
79年、フランスの詩人ジャック・プレヴェールの詩を歌ったレコードを出したことが、日本とフランスで話題になる。その後はフランスで歌手活動し、2010年に62歳で死去した。

薩の映像はYouTubeに多数あるが、眉を剃り落とし、1920、30年代のアンティークのドレスに身をつつんだ独特のファッション、その一方で歌う曲はテクノである。初見で、このアンバランスさを受け入れるシャンソン愛好家は正直少ないだろう。
しかし、彼女のファッションがフランスのアールデコ期のもの、言い換えれば日本のシャンソン愛好家がイメージするフランスのファッションであり、他方で自身のレパートリーをフランスはじめ世界で流行していたテクノで歌っていたことは、彼女が日本の移民としてフランスのシャンソン界で生き抜くための武装だったと気づく。

では、彼女はいかにして自身の歌手活動を通じてその鎧を獲得したのか。本稿では、彼女の初期アルバム3枚を取り上げて、数回にわたり論じていく。

薩が日本からパリに渡り、自身のレパートリーを模索するなかで発見したのは、1920、30年代に流行した文学の詩人の作品に曲をつけた「文学的シャンソン」と呼ばれるジャンルだった。石井好子音楽事務所のツテで、現地のクラブ歌手になり歌手活動をするが、やがて専属歌手を辞めてリサイタルのみで活動するようになる。そのリサイタルでは、作詞ジャック・プレヴェールと作曲ジョセフ・コスマの楽曲や、ベルトルト・ブレヒトの戯曲にクルド・ヴァイルが曲をつけたドイツの音楽劇「三文オペラ」の挿入歌(これらは当時フランスの歌手の多くがカバーした)などを中心に構成し、日本人が古きよき「文学的シャンソン」を歌っているということで、徐々に知られるようになる。
その一方で、彼女はパリの男性と結婚し出産もしている。その時期は活動を休止していたようだ。

当時の薩を知ることができる映像がYouTubeにある。
1975年、日本のテレビ番組で映画「砂の器」の主題曲「宿命」で知られるピアニストの菅野光亮と対談する映像だ。
菅野と対談しながら、彼女は自身のコレクションである20、30年代のファッション誌や骨董品を手にとって紹介している。この頃から、後のアンティークのファッションに身をつつむスタイルの萌芽が見られる。
また番組では歌声も披露する。フランスの詩人ポール・フォールの詩に曲をつけた「雪玉」、「空と海と太陽と」というシャンソンで知られるフランソワ・ドゥゲルトの曲「さくらんぼ実る頃を歌って」(のちにドゥゲルトは彼女に「風、ノルマンディー」という曲を提供し、それが日本のドラマ「天皇の料理番」の主題歌になる)、日本の詩人・西脇順三郎の詩に菅野が曲をつけた「冬の朝」だ。
このレパートリーを見ても、彼女が「文学的なシャンソン」を通じて、自身の歌手としてのスタイルを確率しようとしているのが伺い知れるだろう。
そんな彼女の運命は、79年に大きく花開くこととなる。
(続きます)