シャンソン愛

峰艶二郎(みね えんじろう)による、シャンソンについて綴るブログです。著書『戦前日本 シャンソン史』(1500円.完売)。htmt-mth@ezweb.ne.jp

寺山修司

昨日は「さっぽろ寺山修司資料館」に行ってきた。
寺山と交流があった山形健次郎氏所蔵の資料を展示する私設博物館で、今年の五月に開館した。

展示資料は、山形氏宛の書簡、寺山関連の書籍やポスターである。書簡は学生俳人としてデビューし、ネフローゼで入院したのち、歌人として活躍しはじめた頃のものだ。書簡を一通ずつ読んでいくと、寺山青年の息吹を感じることができた。
当時は「第二芸術論(短歌や俳句は小説に劣る文学だという論)」が論争になっていた時期である。それを受けて寺山は「句が生まれるなどと言うから、俳句は文学として一線を越えない。俳句は作るものだ」「もっとフィクションを」と言ったことを記しているのが印象的であった。寺山の創作に対するスタンスは、俳人時代にすでに確立されていたのである。

また当時はシャンソンが流行していた時期であり、書簡にもシャンソンに関する記載が多数見受けられた。
「僕はサセパリが好きさ」「ジュリエット・グレコは最高だ。彼女の「ポルトガルの4月」が特にいい」等。
「サセパリ」は、「サセパリを悲歌に数えむ酔いどれの少年とひとつのマントの中に」という寺山の一首が有名だが、単に歌の題材としてではなく個人的にも愛聴していたようだ。グレコサルトルなどの実存主義一派に愛された歌姫だっただけに、日本の文学者のなかにもファンが多くいた。まだ日本でシャンソンが高尚な音楽と捉えられてた頃の話である。しかしながら、「ポルトガルの4月」はグレコではなくイヴェット・ジローの曲である。これは寺山の聴き違いだろう。
また当時日本では、谷川俊太郎を筆頭にして文学者の詩に曲をつけたものを和製シャンソンと呼んでいた。詩を読むのではなく歌うことが、現代詩の新たな可能性として模索されたのである。寺山作品も例外ではなく、彼の第一歌集『空には本』には、彼の短歌に曲をつけたものがシャンソンとして紹介され、楽譜が掲載されている。
なので、寺山はシャンソン歌手と催事で共演することがあったようだ。書簡を見ると、昭和30年に芦野宏、沢庸子のシャンソンライブに三島由紀夫vs石原慎太郎の対談、寺山の詩の朗読で構成された催事、31年には芦野のシャンソンライブに、佐藤春夫西脇順三郎の講演、谷川俊太郎と寺山による詩劇で構成された催事が開かれたようだ。前者は現代詩の可能性、後者はフランス詩についての催事だと思われるが、双方とも豪華なプログラムである。
芦野は和製シャンソンに協力的であったし、沢はグレコに心酔した歌手だったので、こうした催事に呼ばれるのは納得できる。恐らく芦野は詩人の野上彰の作品、沢は詩の朗読運動の草分けで彼女のレパートリーを訳詞していた津田誠の作品を歌ったのではないだろうか。

思えば、寺山とシャンソンの関わりは面白いテーマである。このあたり、機会があれば掘り下げてみたい気がする。