1960年代のシャンソンブームは、音楽としてだけでなく日本の文学界にも大きな影響を与えた。
私は以前、作曲家の高木東六が、シャンソンをレコード会社による商業主義によって作られた日本の歌謡曲の対局に位置付け、民衆の手による民衆のための音楽の創出の必要性を説いたことを記事に書いた。この時期に、文学界において「歌える詩」の創出を訴えたのが、詩人の谷川俊太郎である。
谷川は、昭和32年(1957年)に発刊された「ユリイカ 特集シャンソン」で次のように述べている。
でもあなたとて人間、もっと小さな日々の喜びや苦しみもおありの筈、歌があるのはそれらのためなのだ。(中略)
詩は文学のためにあるのではない。(中略)それは我々自身、生きた人間たちの手足、心、体、頭、即ち生きた人間全体のためにあるのだ。詩人は歌えぬことを恥としなければいけない。
谷川は、詩は人間が生きるために必要なものであり、人々に歌われなければならないと説いている。なぜならば、日常生活における人々の「喜びや苦しみ」などの感情は、詩を歌うことで表現できるからだ。
こうした谷川の主張は、高木が目指した民衆のための音楽と共通している。こうして谷川が作った歌われるための詩は、「日本のシャンソン」として位置付けられてゆく。
谷川が「日本のシャンソン」として作った詩の一部を見ていきたい。
「ただそれだけの歌」
「うそだうそだうそなんだ」(ともに寺島尚彦作曲)
「真昼のマンボ」(平岡精二作曲)
「帽子のかぶり方」(松井八郎作曲)
こうして見ると、シャンソンに影響を受けた作曲家が作品を手掛けていることに気づく。特に谷川は寺島尚彦(石井好子専属の伴奏者で、「さとうきび畑」を作詞作曲した)と「グループリラ」という新しい日本の歌を創出するグループを組んで活動していた。かつてお茶の水にあった「シャンソン喫茶ジロー」では、谷川と寺島による作品を発表する「新しい日本の歌」という当時にしては実験的な公演が催されている。
こうして見るとシャンソンは単なる異国趣味の音楽ではなく、商業主義による日本の歌謡曲に対する抵抗と新しい現代詩の創出のきっかけとなったことが見えてくる。
シンガーソングライターが歌を作る現代において、詩人が歌を作るのは目新しいことではない。だが、彼らの作品がレコード会社の商業主義のもとで作られ、発表されていることに気づくのである。吉本隆明は「谷川俊太郎がどんな詩人よりもはやく目ざめて、まだ未明のうちから詩の言葉を、街頭や歌を唱う群衆たちの唇にのぼせようとしてきた。詩人たちは代表選手を送るように谷川俊太郎を送りはしたが、そのあと振り向こうとはしなかった。」(「若い現代詩」)と述べているが、私は彼が人々に歌われる詩の創出を目指した意図を改めて見直さなければならないと思う。これは、次世代のシャンソンという問題にもつながることだ。あらゆるジャンルにあふれた日本の音楽のなかでシャンソン界はこれからいかなる活路を見い出してゆくのか、谷川とシャンソンの関わりを調べてゆくなかで課題を見いだした次第である。
今回谷川について調べるにあたり、札幌にある「俊カフェ」に行った。谷川のファンであるオーナーが集めた谷川関連の書籍が並んだカフェである。オーナーの紹介で、谷川が作った歌われるための詩を集めた詩集を読むことができた。できることなら、読むだけでなく曲として聴いてみたいと思った。