シャンソン愛

峰艶二郎(みね えんじろう)による、シャンソンについて綴るブログです。htmt-mth@ezweb.ne.jp

純粋なオーディエンス

「若者とシャンソン 「純粋シャンソン愛好家」の創出」

最近、短歌の世界で「純粋読者」という言葉が話題になっているようだ。
これは歌人の雲嶋聆(くもしま れい)が、評論「黒衣の憂鬱ー編集者・中井英夫論」(第35回現代短歌評論賞)で述べられたものである。内容は、
「短歌作品の読者は実際に短歌を作っている人ばかりで身内の集まりという印象がある。小説が不特定多数の人々に読まれているように、短歌作品もまた純粋な読者を幅広く獲得していかなければ、「斜陽文芸」になってしまうのである」
というものだ。
私はこの評論を読んで、現代日本の若者世代とシャンソンの関わりが、短歌の世界と同様であることに気づいた。現在、若者世代でシャンソンを愛好する人は少ない。しかも、その大半がシャンソンを歌っている、あるいは習っている人ばかりではないだろうか。シャンソンもまた、シャンソンを純粋に愛好する若者を獲得していかなければ、将来的に短歌同様廃れてしまうにちがいない。
最近、「現在活躍するシャンソン歌手は20代でデビューしました」をキャッチコピーに、29歳までの若者を対象にした「次世代シャンソンコンクール」が行われているが、これによって若者世代の間でシャンソンが活性化するとは正直思えない。かつて20代でデビューした歌手が大成したのは、彼らの周りに同世代のシャンソンを愛好する者が沢山いたからである。新人歌手だけでなく、聴衆を獲得してゆくことから目を背けてはならない。

雲嶋は短歌の「純粋読者」を獲得するために他ジャンルとのコラボレーションを挙げている。雲嶋のなかには、かつてマラルメ(詩人)、ドビュッシー(音楽家)、ニジンスキー(舞踊家)によって作られたバレエ「牧神の午後」のような構想があるようだ(私は芸術家などの文化人を優先して「純粋読者」にしようとする雲嶋の主張を疑問視している。また、俵万智「サラダ記念日」のようなベストセラーを創出する歌人の鋭意努力は必須だと考える)。
私は、シャンソン歌手に他ジャンルとのコラボレーションは必要ないと考える。シャンソンと他ジャンルとのコラボレーションは、昭和30年代の第一次シャンソンブームの際にすでに主張されているからだ。その最たるのが、作曲家・高木東六が主張した「フランスのオペレッタのような音楽劇の創出」であり、それは昭和25年に中原淳一がプロデュースした日本初のミュージカル「ファニー」(シャンソン界からは高英男葦原邦子が出演している)の上演によって結実している。シャンソンとミュージカルの組み合わせは、現在でも「パリ祭」のフランスの街並みの舞台装置の前で歌手が踊りながら歌う、高平哲郎の演出に受け継がれているといえる。また最近、ROLLYやNERO、Kayaといったヴィジュアル系のルックスの歌手がシャンソンを歌うのも、他ジャンルの音楽のコラボレーションとして注目してよいだろう。

むしろ私がシャンソンが他のジャンル、特に文学界と交流しなければならないと考えているのが、訳詞家の存在である。フランスのシャンソンの原詞を日本語に翻訳する作業を、私は文学の領域として捉えている(しかしながら、日本文学史で歌の作詞家、訳詞家は文学者として捉えられていない。ボブ・ディランノーベル文学賞をとったことで、今後「歌詞」が文学として位置付けられて行くのか注目している)。
フランス語のオリジナルの歌詞を日本人に伝わるように、あるいは琴線に触れるように、翻訳、意訳された訳詞の存在は、日本のシャンソンの魅力のひとつである。しかしその訳し方が、約90年の日本シャンソン史を通じて一辺倒になっている感じは否めない。
たとえば、シャンソンに登場する「私」の描かれ方を見てみると、「私は私」、「私は私の道を行く」と言ったような、唯我独尊をテーマにした歌詞が多い。確かに、自我を強く持て!というメッセージ性を帯びた歌詞はシャンソンの魅力のひとつだと言える。しかし、現代文学では「私と社会」というアプローチがなされた作品が多く発表されている。これは、社会との関わりを通じて自己を見いだす、あるいは発見するというテーマである。こうした唯我独尊ではない、「私と社会」というテーマで書かれたシャンソンの訳詞はほとんどない(今、思い付くのは美輪明宏「祖国と女達」のみである)。
シャンソンが行き着くのは人間」(訳詞家・菅美沙緒)
であるならば、訳詞家は人間の在り方を探る文学界との交流を図り、現代を生きる人々を照射した作品を描くべきである。それは、若者世代の純粋シャンソン愛好家を創出するためのひとつの手段にもなるのである。
いかにしたら、若者世代が純粋にシャンソンを愛聴してくれるのか、今後も様々な視点で分析していきたい。