12月29日「シャンソンの日」に寄せて
シャンソン歌手の深江ゆか様の御芳書『Adieu銀巴里~歌いつづけて~』(ゴマブックス株式会社)を、拝読しました。深江様の歌い手としての半生が、銀座7丁目にあったシャンソン喫茶「銀巴里」(1951~90年)の歩みとともに記されています。
深江様が調査研究されまとめられた「銀巴里」の記述は、一級の資料的価値があります。また、御芳書を通じて「シャンソンに傾けた情熱や、「いかに歌に己の心を託すか」ということに心を注ぎ努力した」歌い手さんたちの「銀巴里魂」の崇高さを感じずにはいられませんでした。深江様が、自由が丘でシャンソニエ「ラマンダ」を営まれたり、日本訳詞家協会の理事としてご活躍されるのは、「銀巴里」で培われた清き志によるものでしょう。
清廉なお心には、神様が宿るものなのです。
ところで、御芳書のなかにシャンソン歌手の「伊藤一恵」さんのお名前を見つけました。
伊藤一恵さんは歌の上手い方だったそうで、1983年9月に34歳で夭逝されたと聞きます。
伊藤一恵さんは、1972年の「銀巴里」のオーディションに合格し、出演していたそうです。
私が、伊藤一恵さんのことを知ったのは、シャンソン歌手の田中朗さんが、シャンソン評論家の大野修平さんのサイトに寄せた文章です。それは、シャンソン歌手、くどうべんさんへの追悼文でした。
伊藤一恵さんが亡くなったとき、くどうさんが、
「菅野チャン(菅野光亮、作曲家・ピアニスト)、死んで誰を連れてくかと思ったら やっぱり俺や おめェじゃなくて 伊藤一恵を連れてった。 俺だと汚ねェし、おめェだと ウルセェし・・・女なら菅ちゃん大好きだから・・。」
と言った、という内容でした。
菅野さんは、歌い手には厳しい方だったと聞いたことがあったので、この言葉からも伊藤一恵さんが歌に卓越した方だったのを、私は推察しました。ちなみに、菅野さんが亡くなったのは、伊藤一恵さんが亡くなる1ヶ月前でした。
伊藤一恵さんについては、シャンソン歌手の槇小奈帆さんも御芳書に記されています。
彼女は修業時代、「ブン」(赤坂にあった、シャンソン歌手の古賀力さんのシャンソニエ)で歌っていた。オトコの子のようにさっぱりしていて歌が上手かった。私がスランプで落ち込んでいたときも、一恵ちゃんはズーっと励ましてくれていた。(中略)
ある夜、私は無礼者の客に我慢ができなくて荒れていた。
「マキちゃん、どうしても腹の虫がおさまらないんだったら、それで気がすむなら、私を叩いてもいいよ! だから辛抱して歌って、マキちゃんッ!」
私は……。一恵ちゃんをビンタしてしまった。昭和五十八年九月、一恵ちゃんは、ひとり淋しく銀座のマンションで死んでいた。ギー・ベアールの『後には何もない』、ムルージの『小さなひなげしのように』がオハコだった。三十四歳だった。
これは、プロがプロとして活躍できた時代の、生きた、泣いた、歌った、壮絶な記録です。
せっかくなので、ギィ・ベアール(Guy Béart)の「後には何もない(Il n'y a plus d'après)」を聴いてみました。
「サンジェルマン・デ・プレには、昔を偲ぶものは何もない。ここには、過去も未来もなく、今この時しかないのだから」
といった内容でした。
私は、伊藤一恵さんの写真や歌を見聞きしたこはありません。そして「銀巴里」にも行ったことはありませんでした。
「銀巴里」があり、街でシャンソンが流れていた頃は、プロのミュージシャンがその意識を高く持って活躍できた時代だったのでしょう。そして時が流れて、それが「今この時しかない」ものになってしまったことに、私は忸怩たる思いを抱きます。