シャンソン愛

峰艶二郎(みね えんじろう)による、シャンソンについて綴るブログです。著書『戦前日本 シャンソン史』(1500円.完売)。htmt-mth@ezweb.ne.jp

谷川俊太郎

「文学の秋 シャンソンと詩人 ー谷川俊太郎ー」

1960年代のシャンソンブームは、音楽としてだけでなく日本の文学界にも大きな影響を与えた。
私は以前、作曲家の高木東六が、シャンソンをレコード会社による商業主義によって作られた日本の歌謡曲の対局に位置付け、民衆の手による民衆のための音楽の創出の必要性を説いたことを記事に書いた。この時期に、文学界において「歌える詩」の創出を訴えたのが、詩人の谷川俊太郎である。
谷川は、昭和32年(1957年)に発刊された「ユリイカ 特集シャンソン」で次のように述べている。

でもあなたとて人間、もっと小さな日々の喜びや苦しみもおありの筈、歌があるのはそれらのためなのだ。(中略)
詩は文学のためにあるのではない。(中略)それは我々自身、生きた人間たちの手足、心、体、頭、即ち生きた人間全体のためにあるのだ。詩人は歌えぬことを恥としなければいけない。

谷川は、詩は人間が生きるために必要なものであり、人々に歌われなければならないと説いている。なぜならば、日常生活における人々の「喜びや苦しみ」などの感情は、詩を歌うことで表現できるからだ。
こうした谷川の主張は、高木が目指した民衆のための音楽と共通している。こうして谷川が作った歌われるための詩は、「日本のシャンソン」として位置付けられてゆく。
谷川が「日本のシャンソン」として作った詩の一部を見ていきたい。

「ただそれだけの歌」
「うそだうそだうそなんだ」(ともに寺島尚彦作曲)
「真昼のマンボ」(平岡精二作曲)
「帽子のかぶり方」(松井八郎作曲)

こうして見ると、シャンソンに影響を受けた作曲家が作品を手掛けていることに気づく。特に谷川は寺島尚彦(石井好子専属の伴奏者で、「さとうきび畑」を作詞作曲した)と「グループリラ」という新しい日本の歌を創出するグループを組んで活動していた。かつてお茶の水にあった「シャンソン喫茶ジロー」では、谷川と寺島による作品を発表する「新しい日本の歌」という当時にしては実験的な公演が催されている。
こうして見るとシャンソンは単なる異国趣味の音楽ではなく、商業主義による日本の歌謡曲に対する抵抗と新しい現代詩の創出のきっかけとなったことが見えてくる。
シンガーソングライターが歌を作る現代において、詩人が歌を作るのは目新しいことではない。だが、彼らの作品がレコード会社の商業主義のもとで作られ、発表されていることに気づくのである。吉本隆明は「谷川俊太郎がどんな詩人よりもはやく目ざめて、まだ未明のうちから詩の言葉を、街頭や歌を唱う群衆たちの唇にのぼせようとしてきた。詩人たちは代表選手を送るように谷川俊太郎を送りはしたが、そのあと振り向こうとはしなかった。」(「若い現代詩」)と述べているが、私は彼が人々に歌われる詩の創出を目指した意図を改めて見直さなければならないと思う。これは、次世代のシャンソンという問題にもつながることだ。あらゆるジャンルにあふれた日本の音楽のなかでシャンソン界はこれからいかなる活路を見い出してゆくのか、谷川とシャンソンの関わりを調べてゆくなかで課題を見いだした次第である。

今回谷川について調べるにあたり、札幌にある「俊カフェ」に行った。谷川のファンであるオーナーが集めた谷川関連の書籍が並んだカフェである。オーナーの紹介で、谷川が作った歌われるための詩を集めた詩集を読むことができた。できることなら、読むだけでなく曲として聴いてみたいと思った。

純粋なオーディエンス

「若者とシャンソン 「純粋シャンソン愛好家」の創出」

最近、短歌の世界で「純粋読者」という言葉が話題になっているようだ。
これは歌人の雲嶋聆(くもしま れい)が、評論「黒衣の憂鬱ー編集者・中井英夫論」(第35回現代短歌評論賞)で述べられたものである。内容は、
「短歌作品の読者は実際に短歌を作っている人ばかりで身内の集まりという印象がある。小説が不特定多数の人々に読まれているように、短歌作品もまた純粋な読者を幅広く獲得していかなければ、「斜陽文芸」になってしまうのである」
というものだ。
私はこの評論を読んで、現代日本の若者世代とシャンソンの関わりが、短歌の世界と同様であることに気づいた。現在、若者世代でシャンソンを愛好する人は少ない。しかも、その大半がシャンソンを歌っている、あるいは習っている人ばかりではないだろうか。シャンソンもまた、シャンソンを純粋に愛好する若者を獲得していかなければ、将来的に短歌同様廃れてしまうにちがいない。
最近、「現在活躍するシャンソン歌手は20代でデビューしました」をキャッチコピーに、29歳までの若者を対象にした「次世代シャンソンコンクール」が行われているが、これによって若者世代の間でシャンソンが活性化するとは正直思えない。かつて20代でデビューした歌手が大成したのは、彼らの周りに同世代のシャンソンを愛好する者が沢山いたからである。新人歌手だけでなく、聴衆を獲得してゆくことから目を背けてはならない。

雲嶋は短歌の「純粋読者」を獲得するために他ジャンルとのコラボレーションを挙げている。雲嶋のなかには、かつてマラルメ(詩人)、ドビュッシー(音楽家)、ニジンスキー(舞踊家)によって作られたバレエ「牧神の午後」のような構想があるようだ(私は芸術家などの文化人を優先して「純粋読者」にしようとする雲嶋の主張を疑問視している。また、俵万智「サラダ記念日」のようなベストセラーを創出する歌人の鋭意努力は必須だと考える)。
私は、シャンソン歌手に他ジャンルとのコラボレーションは必要ないと考える。シャンソンと他ジャンルとのコラボレーションは、昭和30年代の第一次シャンソンブームの際にすでに主張されているからだ。その最たるのが、作曲家・高木東六が主張した「フランスのオペレッタのような音楽劇の創出」であり、それは昭和25年に中原淳一がプロデュースした日本初のミュージカル「ファニー」(シャンソン界からは高英男葦原邦子が出演している)の上演によって結実している。シャンソンとミュージカルの組み合わせは、現在でも「パリ祭」のフランスの街並みの舞台装置の前で歌手が踊りながら歌う、高平哲郎の演出に受け継がれているといえる。また最近、ROLLYやNERO、Kayaといったヴィジュアル系のルックスの歌手がシャンソンを歌うのも、他ジャンルの音楽のコラボレーションとして注目してよいだろう。

むしろ私がシャンソンが他のジャンル、特に文学界と交流しなければならないと考えているのが、訳詞家の存在である。フランスのシャンソンの原詞を日本語に翻訳する作業を、私は文学の領域として捉えている(しかしながら、日本文学史で歌の作詞家、訳詞家は文学者として捉えられていない。ボブ・ディランノーベル文学賞をとったことで、今後「歌詞」が文学として位置付けられて行くのか注目している)。
フランス語のオリジナルの歌詞を日本人に伝わるように、あるいは琴線に触れるように、翻訳、意訳された訳詞の存在は、日本のシャンソンの魅力のひとつである。しかしその訳し方が、約90年の日本シャンソン史を通じて一辺倒になっている感じは否めない。
たとえば、シャンソンに登場する「私」の描かれ方を見てみると、「私は私」、「私は私の道を行く」と言ったような、唯我独尊をテーマにした歌詞が多い。確かに、自我を強く持て!というメッセージ性を帯びた歌詞はシャンソンの魅力のひとつだと言える。しかし、現代文学では「私と社会」というアプローチがなされた作品が多く発表されている。これは、社会との関わりを通じて自己を見いだす、あるいは発見するというテーマである。こうした唯我独尊ではない、「私と社会」というテーマで書かれたシャンソンの訳詞はほとんどない(今、思い付くのは美輪明宏「祖国と女達」のみである)。
シャンソンが行き着くのは人間」(訳詞家・菅美沙緒)
であるならば、訳詞家は人間の在り方を探る文学界との交流を図り、現代を生きる人々を照射した作品を描くべきである。それは、若者世代の純粋シャンソン愛好家を創出するためのひとつの手段にもなるのである。
いかにしたら、若者世代が純粋にシャンソンを愛聴してくれるのか、今後も様々な視点で分析していきたい。

原孝太郎

「日本シャンソン界の父 原孝太郎」

先日、札幌で美輪明宏がコンサートを催した。
そのなかで美輪が「私は、原孝太郎と東京六重奏に習ってましたからね、それでタンゴを覚えたんです」と話していた。
多分、「それって誰?」と疑問に感じる方がほとんどだったのではないだろうか、本稿で原孝太郎について紹介してみようと思う。

原は大正2年山口県出身。
武蔵野芸大で学び、昭和19年に「原孝太郎と東京六重奏団」を結成し、文部省主催の軽音楽審査会で一等賞を受賞した。
昭和27年にラジオ東京と専属契約を結び、タンゴやシャンソンを演奏する番組を持ち、国民的人気を博した。
ちなみに、流行歌としてもヒットした和製シャンソンの「水色のワルツ」(作詞・藤浦洸、作曲・高木東六、歌・二葉あき子)は、原孝太郎と東京六重奏団が伴奏している。
昭和28年にフランスよりダミアが来日公演した際には、原孝太郎と東京六重奏団が伴奏をし、全国を巡業した。
同年、原はダミアから招かれてフランスに留学し、一年間ヨーロッパを巡った。
帰国後は、シャンソンの伴奏と新人育成に力を注ぎ、「銀巴里」や原宿にあった「ラ・セーヌ」で活躍した。
平成5年、没。

原の経歴を調べてみると、彼が現在の日本シャンソン界を礎を築いた人物、いわば日本シャンソン界の父のような存在であったことが見えてきた。
まず注目したいのは、原は日本にシャンソン喫茶を作った人物だということだ。
原が活動していた「銀巴里」はもともとはキャバレーであった。
原孝太郎と東京六重奏団は、キャバレーのステージで当時流行っていたアルゼンチンタンゴを演奏するために雇われていた。
ちなみにこの時の専属歌手が、シャンソン歌手の福本泰子である。
その後フランスに留学した原は、現地でシャンソン喫茶の存在を知った。
当時の日本で生の音楽を聞ける場所は、コンサート会場やキャバレーであったが、パリでは喫茶店でコーヒーを飲みながら気軽に演奏を聴いていたのである。
その事にカルチャーショックを受けた原は、帰国後「銀巴里」を経営していた「日本観光新聞」の社長・木村達三を説得し、「銀巴里」を昼間はシャンソンが聴ける喫茶店、夜はキャバレーという営業スタイルに変えてもらう。
日本にシャンソン喫茶が誕生した瞬間であった。
ちなみにこのときの専属歌手が、喜多川祐子、只野智江子、丸山明宏(美輪明宏)である。

また、原はシャンソンの新人歌手の育成にも力を入れていく。
もともと原は、タンゴの女王・藤沢嵐子を見出だした人物であり、当時から新人育成には定評があったようだ。
先に述べた美輪と福本をはじめ、仲代圭吾、沢庸子、戸川昌子など、現在ではシャンソンの大御所といわれる人達を育成した。

以上のように、原は日本シャンソン界のメッカである「シャンソン喫茶・銀巴里」をつくり、シャンソン界の大御所達を育てた人物である。
現在の日本シャンソン界を支える歌手たちの大半が「銀巴里」出身であり、原に育てられた歌手の影響を受けた、もしくは彼らと師弟関係を結んでいることを考えると、もし原がいなければ、現在のような日本シャンソン界は成り立たなかったことになる。
まさに原は、日本シャンソン界を作った人物だと言えるのだ。

原の演奏は、ヨーロッパの軽音楽を忠実に再現した質の高いものである。
私が持っている原のレコードは2枚。
「哀愁のムード」(原孝太郎と東京六重奏団)と「小さな喫茶店 魅惑のコンチネンタルタンゴ」(原孝太郎とアンサンブルミネルバ)である。
「哀愁のムード」は戦前の流行歌と抒情歌のメロディーをヨーロッパ風に編曲したもの。
A面の流行歌をマンボ、B面の抒情歌をタンゴにアレンジしている。
「小さな喫茶店」では、ヨーロッパで作られたタンゴであるコンチネンタルタンゴを、戦前に流行したバルナバス・フォン・ゲッツィ楽団を彷彿とさせる編曲で演奏している。
「碧空」や「奥さまお手をどうぞ」は優雅に、「ジェラシー」では身悶えするような激しい演奏を繰り広げている。
なかなか聞き応えのあるレコードだ。

原孝太郎の存在は、シャンソン界からも忘れかけられていないだろうか?
私は、日本のシャンソンを研究する上で、原の存在を非常に重要視しているし、彼の功績は讃えられるべきだと考える。
日本シャンソン協会で毎年行われるプリスリーズ(日本シャンソン界に功績のあった人物に対する表彰式)で、原の名前が挙がる日を期待するばかりである。

菅美沙緒

「日本のミスタンゲット 菅美沙緒」

菅は大正5年、愛媛県生まれ。
東京で声楽家三浦環のもとで学び、昭和17年に日本歌曲のリサイタルを開いたが、シャンソンに惹かれたことがきっかけで、戦後はシャンソン歌手に転身する。
昭和22~4年にかけて3回のシャンソンのみで構成されたリサイタルを開いた。石井好子が、日向好子としてリサイタル(プログラムのなかにシャンソンが数曲入ったもの)をひらいたのが昭和23年であったことから見て、菅が早くシャンソンに注目していたのが分かる。
昭和25年には、創学社で出版された日本最初のシャンソン楽譜集『シャンソンアルバム』で訳詞を担当した。
その後は、産経会館という場所でシャンソン教室を開いた。教室を開いたのがいつ頃なのか特定はできなかったが、昭和32年出版の『シャンソンの為に』にではすでに紹介されていた。この教室が、現在多くあるシャンソン教室の元祖である。のちに菅は、京都国際ホテルをはじめ、関西を中心に教室を持ち、関西のシャンソン業界で影響力を持つこととなる。
菅の教え子のなかには、現在活躍する出口美保(一番弟子)や、佐竹律香、ワサブロー、ファドの月田秀子などがいる。とある方が教えてくださったのだが、菅と教え子たちは、かつて京都にあった高級クラブ「ベラミ」に出演していたそうだ。「ベラミ」は、ここでショーをやれば一流歌手と言われた店である。菅の関西での知名度の高さが伺える。
平成12年、没。現在はフランスのモンマルトルに眠っている。

よく知られているのは、訳詞者としての菅であろう。
先にも述べたように、菅は昭和25年にシャンソン楽譜集『シャンソンアルバム』(全七巻 創学社)で訳詞を行った。
創学社は、社長の内田和男がシャンソン好きだったことからシャンソンに関する書籍を多く出版していた。
この『シャンソンアルバム』に収められた「桜んぼの実る頃」、「待ちましょう」などは、菅の代表的な訳詞である。
この楽譜集の出版によって、日本語のシャンソンが広く普及し、現在まで歌い継がれているのだ。
また昭和32年には、水星社という出版社で多くの楽譜の訳詞や編集を行っている。ちなみに水星社では社員が「水野汀子」というひとつのペンネームを共有していた(ビクターレコードの「音羽たかし」と同様)そうなので、どこまでが菅の仕事なのかが判別できないのではないだろうか。ちなみに、水星社の出版物には、訳詞家の薩摩忠や岩谷時子らが協力していた。

歌手としての菅は、蘆原英了いわくイボンヌ・ジョルジュに惚れ込み、彼女の生涯をミュージカル化して主演したことがあるという。
また蘆原は彼女のことを「この人は頑固な感激家で、一度シャンソンに惚れたらテコでも動かず、シャンソン一筋の道を歩んでいる。そして金銭的にはほとんど恵まれていない」と皮肉めいた評をしている。
そんな菅の歌声を収めたのが、『幻のシャンソン歌手 菅美沙緒 絶唱』(昭和49年)である。
音源は「これより菅美沙緒リサイタルを上演いたします」というナレーションからはじまるが、録音日や会場名が記されていない上、拍手の音が後付けされたように不自然に入っていることから、実況録音風に作られたもののように思われる。
レコードを企画した「京都音楽文化協会」の理事長・白石瑛笥は「レコード化について菅を説得すること、十数年、ここに私の夢は実現しました」と述べている。どうやら菅はレコード化については乗り気ではなかったようだ。

そのような状況で制作されたレコードだが、内容は大変素晴らしい。
まず菅の歌声は、ミスタンゲットの歌声によく似ていて、戦後まもない頃に発声法に頼らない独自の世界観を持った歌手がいたことに驚愕した。戦前のパリの雰囲気、というより当時の人々がシャンソンを聴いて空想したであろうパリの雰囲気が目に浮かぶのである。
また歌われた曲の大半は菅の訳詞で、吉田博のピアノに合わせて堂々と歌声を披露している。

最後にレコードのなかで菅が言った言葉を引用したい。
「歌の行き着くところは人間。自分の歌声で自分を表現することが大切。そういう意味で私はベコーを尊敬します」
このリサイタル?の最後の歌(アンコール前)はベコーの「そして今は」(菅の訳詞)であった。

木島新一

☆ 木島新一と「Mavie 80」

先日、東京の「アバンセ」というお店に飾られている高野圭吾の絵の画像をアップしてくれた方がいた。その投稿の中に、高野、くどうべん、木島新一の3人が肩を組んでる写真があった。
「くどうべんは知ってるけど、木島新一って誰だったかしら」と考えていたら、偶然その日にオークションで落とした「Mavie 80」というレコードに収録されていた人であった。
昨日レコードが届いて、中に木島新一について記載されていたので、紹介したい。

木島新一
俳優。青年座、NLT、浪漫劇場を経て、フリーの俳優として活躍する。インターネットには、浅草オペラにも所属していたと書いてあるが、真偽を確かめることはできなかった。
ミュージカルに多く出演していたことから、歌の道にも入り、シャンソンを歌っていた。

木島が、シャンソン歌手として出演していたのがシャソニエ「Mavie(マビー)」であった。
Mavie」は、銀座にあったシャソニエで、歌手の日高なみが店主をつとめていた。開高健遠藤周作などの文士に愛された店だったが、2007年に閉店している。

Mavie 80」は、店のライブの実況録音盤で、当時の店内の雰囲気が感じられる1枚だ。
歌手が歌いながら客を煽って、客がワーワー騒いでて、口笛がなったり、掛け声が上がったりと、とても楽しそうなのが伝わってくる。

レコードには、木島の「見果てぬ夢」「お酒天国」が収められている。「見果てぬ夢」はミュージカル「ラ・マンチャの男」の挿入歌。「この世で一番の狂気は、今の自分にあぐらをかいて、あるべき自分を追い求めないことだ!」と叫ぶセリフに、客が「そうだっ!」と呼応するのが印象的な熱い歌だ。
「お酒天国」ははじめて聴くシャンソンだったが、木島の堂々とした歌いっぷりに客が盛り上がっていた。
この2曲を聴いて、木島の熱い人柄を感じることができた。機会があれば、他の曲も聴いてみたい。

せっかくなので、「Mavie 80」の紹介もしたい。

日高なみ「回転木馬
笹原春美「天使のセレナーデ」
井関真人「自転車」
深江ゆか「うそ」
水城淳「ラ・ボエーム

日高なみ「マッキー・メッサー」
蛯原良平「旅芸人のバラード」
池田純子「さくらんぼ実る頃」
木島新一「見果てぬ夢」 「お酒天国」
日高なみ「Mavie
ピアノ 土岐雄一郎

店主である日高なみは、「なかにし礼シャンソン詩集」ではじめて聴き、娼婦の歌と他の歌で声色を使い分けて歌っているのが印象的だったが、このレコードでもそれが発揮されている。また、井関や蛯原のコミックなシャンソン、水城や深江の味わいあるシャンソンが良かった。
あと個人的には、土岐雄一郎の伴奏をはじめて聴いた。かつて菅美沙緒に認められて伴奏、作曲、訳詞と幅広く活躍した人物だが、非常に繊細な演奏で聴き入ってしまう。

まるで時を超えて、「Mavie」にいるような思いになるアルバムであった。

シャンソニエ エルム

名古屋に研修の折、シャンソニエ「エルム」に伺った。
ここは、名古屋を代表するシャンソニエであると同時に「日仏シャンソン協会」(以下協会)の拠点でもある。この協会の活動は、シャンソンを通じて日仏の交流だ。日本のシャンソン歌手が多く所属する「日本シャンソン協会」が国内でのシャンソンの普及を目的としているならば、この協会はフランスで通用する歌手の育成を目的としており、私は以前から全国的に見て特異な名古屋のシャンソン事情に興味があった。

今回「エルム」に伺った日は、私が協会で一番好きな歌手、岡山加代子さんのステージだった。生で聴く岡山さんの歌声は魅力溢れるものであった。また岡山さんはじめ前歌の歌い手全員の歌う時の姿勢が、体の軸がぶれていないことに気づいた。おそらく、歌唱だけでなくステージアクトのレッスンもこなしているのであろう。
この日のライブのタイトルは「法定訳詞コンサート」。ライブのセットリストの全ての歌詞が、ジャスラックに登録された著作権つきの作品である。ライブのピアニストとして出演した協会理事の加藤修滋さんによれば、フランス語の歌詞を日本語に翻訳した「訳詞」に著作権をつけるには、「訳詞」を再びフランス語に翻訳し、それを原作者に見せて納得してもらった上で日仏の著作権団体に申請する手続きを踏まねばならないそうだ。フランス語の歌詞を日本語に直訳してメロディーに乗せるのは不可能に近いため、大半の「訳詞」が意訳あるいは改変されていることを考えると、この作業がいかに難しいかが想像できる。
これを協会では積極的に行ない、日仏共通の「法定訳詞」を共有することで、両国のシャンソン関係者同士の交流を育んでいるそうだ。こうした「法定訳詞」として認められた曲や、日本では知られていない比較的新しいシャンソンを、協会では「シャンソンルネッサンス」と称して、普及につとめている。「ルネッサンス」には、一度絶えたものが甦るという意味があるため批判もあるそうだが、フランスのシャンソンが68年の五月革命を契機にパンクやロックの影響を受け始めたことで終焉したという史観(ピエール・サカ『シャンソンフランセーズの歴史』)に基づけば、あながち間違いではない。
数年前に話題になったエディット・ピアフの歌声によく似たZAZも、「シャンソンルネッサンス」に分類されるだろう。しかしながら、日本の歌手では高木椋太が自身のリサイタルで彼女の楽曲に取り組んで以来、後に続く歌手が皆無なのを見ると、最新の楽曲をレパートリーに加えることには奥手な風潮があるのかもしれない。

日本におけるシャンソンの滅亡論はよく耳にする。しかしシャンソンを愛し、その魅力を発信しようとする者は沢山おり、その方法も千差万別である。
私個人、シャンソン継承には「若者にシャンソンを聴いてもらえたら」という思いを抱いているが、「エルム」に伺ったことで、フランスとの交流もまたその可能性を秘めているのだという、新たな考えを知るきっかけとなった。

山本雅臣

訳詞家の肖像 山本雅臣

前回のNaomiさんのライブを観て以来、日本のシャンソン界で活躍した訳詞家について調べてみたいと思った。日本のシャンソン史が歌手だけでなく、訳詞家によっても支えられてきたのではないか、と考えるようになったからだ。
そんなとき、『山本雅臣詩集 山本雅臣の愛したもの』を手に取った。

山本雅臣については、私の調べる限りあまり情報を得ることができなかった。山本は、シャンソンの訳詞家にしてピアニストして活躍し、銀座にあったシャンソニエ「鳩ぽっぽ」に出演していたらしい。シャンソン歌手の西原啓子は彼の妻に当たる。晩年は高円寺に「Bar カブース」を開いていたそうだ。平成7年(1995年)死去。 (珠木美甫ブログ参照)

この詩集は、平成8年に、山本の妻である西原が彼を追悼するコンサートを開いた際に配られたものである。序文は、西原の師である宇井あきら(シャンソン歌手、作曲家)と西原、末文は飯島忠義が寄せている。
飯島は、「遺された訳詞ノートは1969年に始まり1985年に及びます。それ以降、訳詞は極端に寡作になり、誰もが予想しえなかった死にいたってしまいます。」と述べている。この文章にいかなる真意があるのかは分からないが、山本の訳詞の大半は、69年から85年に行われたものであるようだ。
さらに西原は「男は妻のために数多くのシャンソンの訳詞をしたのだった。」と述べている。確かに、この詩集を通じて、山本の作品の大半が女性視点で描かれていることに気づく。具体的にどの曲が西原のために書いた訳詞なのかは分からないが、彼の訳詞の特徴から、妻が自分の作品を歌うことを念頭に訳詞をしていたのではないかと推測できる。

山本の訳詞の代表作は、リッシェンヌ・ドリールが原曲の「サンジャンの私の恋人(Mon amant de Saint Jean)」だろう。「アコルディオンの流れに/誘われいつのまにか…」というフレーズから始まる歌詞は、まさに日本のシャンソンの王道、というべきドラマチックで耳に心地良い、魅力的なものだ。ちなみに私もシャンソンを聴き始めた頃に、美輪明宏の歌唱でこの曲を繰り返し繰り返し愛聴した想い出がある。
また、「街に歌が流れていた」「五月のパリが好き」「鶴」なども、プロ、アマ問わず広く歌われている。

せっかくなので、妻の西原が歌う山本作品を聴いてみたいと思った。

「旅芸人の道」(Le chemin des forains)

原曲はエディット・ピアフである。ちなみに、この曲は詩集の最初に収められている作品でもある。
これは、女性視点の作品ではなく、綱渡りをする旅芸人が興業を終えて、次の街に向かって夜の道をとぼとぼと消えて行くという内容だ。
「銀のしずくに ぬれて きらめくあたり まぼろしたちが まだ踊っているよ」
「笛の音は 風に揺れ 老楽士の指は 想い出の夢を見る」
などといった歌詞は非常に幻想的、叙情的であり、西原の名唱がその世界観に寄り添っているように感じた。