シャンソン愛

峰艶二郎(みね えんじろう)による、シャンソンについて綴るブログです。著書『戦前日本 シャンソン史』(1500円.完売)。htmt-mth@ezweb.ne.jp

シャンソン喫茶「モンルポ」

世のコレクターの中には、マッチラベルを収集する方々がいるという。
今でこそあまり見かけないが、私の子どもの頃は宣伝用のマッチが店のレジの横などに置かれていたのを覚えている。確かに、マッチのラベルを色々と調べてみると、心惹かれるデザインのものがある。有名な画家やデザイナーが手掛けたものもあるようだ。そういうものなら私も手に取ってみたいものだが、マッチラベル収集は人気があるのか、総じてプレミア価格である。

個人的に、シャンソン関係の店のマッチラベルを集めてみたいとは思う。しかし、これも調べてみると、なかなかお高い値段がついている。
よく見かけるのは、「コーヒーとシャンソン」と書かれた店のマッチラベルだ。
これは、昭和30年代にシャンソンのレコードをかけてコーヒーを提供する喫茶店が乱立したからである。当時はレコードを聴かせるだけでも客が入った時代であった。当時は、歌手のステージを観覧するライブハウスだけでなく、こうしたスタイルの店も総じて「シャンソン喫茶」だったのである。
ちなみに、このレコードを聴かせるスタイルの喫茶店の草分けは、駿河台にあった「ジロー」だろう。この店は、お茶の水にライブハウス型の2号店を出し、のちに「ジロー」の名を冠して全国展開し、今に至る。

とはいえ、こうした店のマッチラベルまで集めてはキリがないので、画像だけ保存して満足していたが、この店のマッチラベルだけはどうしても欲しくなり手にいれた。

新宿「モン・ルポ」

私がこの「シャンソン喫茶」のことを知ったのは、五木寛之「風に吹かれて」という自叙伝であった。


私たちのたまり場は自然とシャンソンの店に落ちついた。<モン・ルポ>という店が、私たち当時の仲間にとっては忘れ難い記憶となって残っている。今の<どん底>のちょうど向かい側にあり、そこには和服の似合うほっそりとした若いマダムがいた。ウエイトレスは女子美のアルバイトの娘で、これもツイギ一風のなかなかの美人だった。私たちはその店で、「ブラマント通り」だとか「枯葉」だとかいつた曲を聞き、カウンターの中のマダムとの一瞬の会話に胸をときめかせ、一杯のコーヒーで終日ねばり続けたものだった。

学生時代の五木がよく訪れていたのが、この「モン・ルポ」だった。しかし、この店の資料を探しても一切見つからず、「こんな店、本当にあったのか?」と疑問視していたときに、このマッチラベルを発見したのである。

さらに、この「モンルポ」は、中井英夫の“反”推理小説「虚無への供物」にも登場する。


新宿三丁目の「どん底」の斜め向かいにあったシャンソン喫茶「モン・ルポ」へ出向くと、久生はじりじりした顔で待ち構えていた。
入口に近く、棕梠のかげにおかれている電蓄はガラード75という自動式の、レコードを重ねておいて次々にかけられる装置で…

これを読めば、この店がジュークボックスのようなレコードプレーヤーで、シャンソンのレコードをかけていたスタイルが見えてくる。
ちなみに、五木と中井の文章に登場する新宿三丁目どん底」とは、現在もある喫茶店で、三島由紀夫黒澤明などが通ったことで知られている。もしかしたら「モン・ルポ」では、その「どん底」から流れてきた文化人や文科系の学生が客層だったのかもしれない。

せっかくなので、中井の「虚無への供物」について、少し筆を執りたい。
これは、氷沼家で起こる連続殺人事件を、シャンソン歌手にして自称探偵の奈々村久生たちが解くというストーリーだ。
久生は、殺人が起こる度に氷沼家の住人である藍司がシャンソンのレコードをかけたり、口ずさんでいることに注目し、その曲のなかで歌われる歌詞が被害者の死に方と一致していると推理する。
(ムルージ「小さなひなげしのように」がかかると刺殺が起き、エディット・ピアフムッシュルノーブル」を口ずさむとガス中毒死が起こる)
そして久生は、意気揚々と店を出るが、レコードプレーヤーがリーヌ・クルヴェ「アルフォンソ」の次ようなフレーズを流す。

「il disait un peu que la vérité」
(あの人ったら、嘘ばっかり)

これによって、久生の推理が外れていることを暗示する。

このストーリーは、シャンソンファンなら胸踊る「シャンソン殺人事件」だが、紐解くとなかなか曲者だ。
なぜなら、
Lyne Clevers「ALFONSO」(「リーヌ・クルヴェ」よりも、リーヌ・クレヴェールのほうが合っている気がする)
という曲には、

「il disait un peu que la vérité」
(彼はちっとも真実を言わない)

というフレーズは存在しない。
そもそも、読者に推理の余地すら与えない、まさに“反”推理小説、壮大な虚構の物語なのだ。これは、人の不幸を面白おかしく取り上げてはならぬという、中井の牽制だろうか。

とはいえ、そんな虚構のなかにも「モン・ルポ」という真実が存在したことに、私は薔薇色の吐息を漏らすのであった。